第158回芥川賞受賞 「おらおらでひとりいぐも」 を読んでみた

「百年泥」に続き、第158回芥川賞受賞「おらおらでひとりいぐも」を読んでみた。

「百年泥」では、文章テクニックのうまさに関心して、さらに作品を理解しきれない自分に対して少し気落ちしたので、「おらおらでひとりいぐも」は少し構えて読むことになった。

この作品の著者は、63歳にして初めて小説を書いたという若竹千佐子さんである。50代後半にして未だ作家になる夢を捨てきれない僕としては、まだその夢を実現する可能性は残されている、と力づけてくれるプロフィールを持っている作品だ。

そういう意味では、「百年泥」で少し夢が遠のいたように感じられる自分を、読む前は少し励ましてくれる作品でもあった。

しかし、実際に読んでみるとやはり「百年泥」に勝るとも劣らない文章のうまさにはただただ尊敬の念を抱くばかり、自分には到底出来ない文章レベルと感じさせられることになった。

「百年泥」では、読んでいるうちにいつの間にか全く不自然さもなく場面が変わっていく文章のうまさに驚いた。

「おらおらでひとりいぐも」は普通の文章から、これもまた全く不自然さを感じさせずに、東北弁の凄いなまりのある文章に変わっていくことに驚いたのである。

63歳のデビュー作とはいえ、著者の若竹さんは子供のころから「自分は作家になるべき人間だ」というような思いを持っておられたようです。(おらおらでひとりいぐも 特別小冊子 Kindle版 最後の方の受賞スピーチによる)

そして、小説講座に8年通った後に初めて書いた小説がこの「おらおらでひとりいぐも」とのことである。

そうか、63歳デビューと言っても、8年間も小説を書く勉強と準備をしていたんだな、ということで、やはり夢と思っているだけで何の勉強もせずにいつか、いつかと思っている自分とは全く違うことを痛感させられる。

さて、「おらおらでひとりいぐも」を30分前に読み終えた時点での率直な感想を忘備録として残しておきたいと思う。

*「おらおらでひとりいぐも 特別小冊子」は本編のごく一部を抜粋した、本編となる単行本の紹介のための小冊子のようです。

「おらおらでひとりいぐも」今の自分の年齢だとそれなりに伝わってくるものがある

「おらおらでひとりいぐも」も「百年泥」も、いわゆる物語ではない。なんというか、どちらも主人公となる人物の精神世界を文字にしているように思う。

それゆえ難しく感じる面もあり、「おらおらでひとりいぐも」は1回しか読んでない時点で、どういう話だったのか、スーッと頭に入ってこなかった。これは僕の読解力のなさ、文学的才能のなさによるものだろう。

「おらおらでひとりいぐも」でもそれを少し感じさせられるところもあるが、”老い”がひとつのキーワードであると思われる分、今の自分の年齢的に伝わってくるもの、考えさせられるものも、感じることが出来た。

「百年泥」は作品が深すぎて、底が見えない、それこそ泥をまさぐっているだけで底が見えない感じであったが、「おらおらでひとりいぐも」では少しは底の深さを感じられたような気がする。

また、ある意味では最後の数ページ、多分こういう結末になるのだろうな、という予想を、全く予想しなかった展開に裏切られ、それは悪い方向ではなく、気持ちを爽やかにさせる方向で裏切られた。これは、こんな展開もあるんだな、と感じさせられ、この作品の良さを最後の最後で感じさせられた。ある意味ではごく平凡な展開なのだが、それだけに著者のうまさ、才能を感じてしまった。

おそらく、僕よりももっと年齢の高い方、自分の親ぐらいの年齢の方はもっと感じることがあるのではないか、と想像できる。

ただ、逆に若い方、それも20代とか30代の人たちは、この作品を読んでどんな感想を持つのだろう、何か伝わるものを感じることが出来るのだろうか、と思ってしまう。

そういう意味では、「百年泥」と同様、作品に対する評価も両極端になるような気がする。

確かにamazonのレビューを見ると辛口のものもある。

でも、どちらかというと評価しているレビューが多い、おそらくある年齢以上の方であれば、何かしらの共感、伝わるものを感じるのではないかと思う。

それにしても、芥川賞というのは、こういうものなんかな、とやはり素人的には感じさせられる部分もある。

芥川賞とペアとも言える直木賞が大衆文学を対象として、芥川賞は純文学を対象としているように聞いたことがあるが、こういう作品が純文学なのだろうか、と少し感じざるを得ない部分もあるのが正直なところである。

僕が考えていた純文学とは少し違うので、もしかしたら僕の純文学に対する認識、理解を修正しなければいけないのかな。

ということで、改めて芥川賞とはどういうものなのか、そして純文学とはどういうものなのか、調べてみた。

芥川賞とは

芥川賞は正式名称は芥川龍之介賞ということを今初めて知った。ちなみに直木賞は直木三十五賞ということだ。

細かいことはネットで調べればいくらでも出てくるのでここでは書かないが、芥川賞の対象となるのは、短編から中編の純文学を書いた新人を対象とした文学賞である、とのことである。

ということは文学界における新人賞のような位置づけなのか、と初めて知った。ということは「おらおらでひとりいぐも」の著者である若竹千佐子さんは、まさに相応しい方のようである。

ただ、過去の芥川賞の受賞者を見るとその新人の定義には少し疑問があるとも言われているようだ。

また、大衆文学の直木賞に対する純文学の芥川賞という位置づけもあるみたいだが、その純文学と大衆文学の違いもあまり明確ではない、というようなことも言われているようである。

設立当初はそれほど話題にもならなかったようであるが、現在では日本人であればほとんどの人が知っているであろう、文学界の賞では最も有名な賞であると言ってもいいのではないだろうか。

正直なとところ、芥川賞と直木賞は知っているが他の文学賞で何か知っているのがあるかと言われても、言えない人は多いのではないだろうか。僕がそうだから。

新人の範囲や、純文学の定義に議論があるとしても、やはり日本では権威のある賞であることには間違いないだろう。

でも、新人はともかく、純文学とはなんなのか、それも簡単に調べてみた。

純文学とは

ウィキペディアによると純文学とは次のように書かれている。

純文学(じゅんぶんがく)は、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する

つまり、面白さよりも、文章の美しさに重点が置かれた作品が純文学ということであろうか。

そういう意味では、「百年泥」と「おらおらでひとりいぐも」の両方に感じた文章のうまさというのが、芥川賞の最も重要なポイントであるのかもしれない。

そうであれば、僕の感じた感覚も、必ずしもピント外れというわけではなさそうだ。これは少し自分への慰めになるかもしれない。

もちろん、そうは言ってもただ単に文章がうまいだけ、芸術性があるだけで芥川賞が受賞できるわけではないだろうが。

ちなみに、直木賞が対象とする大衆文学は、その反対で「芸術性」よりも「娯楽性」に重きを置いている小説である。

要するに面白い作品であれば、文章の芸術性は求めないということだろうか。

もともと僕が純文学に抱いていたイメージは、感動的なストーリーが美しい文章で綴られた小説、というイメージであった。

つまり、しっかりとした物語となっていて、それが美しい言葉で語られている小説である。

今回の受賞作を読みと、物語というところはあまり純文学には重要でないのかな、という印象を受けるのである。

あるいは、僕が作品の面白さを読み取れないだけなのかもしれないが。

さて、次は直木賞作品を読む必要がありそうだな。