エヴァンゲリオンの人類補完計画は、まさに宇宙戦艦ヤマト2202のテレサではないか

エヴァンゲリオン 碇ゲンドウの人類補完計画

エヴァンゲリオンのTV版、新旧アニメ版、漫画版で共通するのは、ゼーレと碇ゲンドウが目指す人類補完計画というものがある、ということだ。

その人類補完計画とはなんだろう。

それぞれのストーリーの中でも、はっきりとした説明はないと思う。

いろいろと解釈はあると思うが、僕はこう思う。

人類は、個体として膨大な数がこの地球に存在するが、それゆえに、いろいろな問題が発生する。

怒りや悲しみ、嫉妬や妬み、など個々の感情があるがゆえに、戦争があり、人と人とが傷つけあう事態が発生する。

人類補完計画とは、そんな人類の苦しみのようなものを一切なくしてしまうために、人類を一つの生命体にしてしまう、というものではないだろうか。

つまり、個々の個体を肉体から切り離して、精神的な一つの存在とする、これが人類補完計画ではないかと思う。

そうなれば、一つのみの存在として、争い合うこともなく、平穏な安定したものとして、永遠に存在できる。

ただし、碇ゲンドウは、その過程でエヴァンゲリオン初号機と融合した碇ユイとの再会を果たす、という目的もあったが。

しかし、エヴァンゲリオンの各シリーズでは、結局人類補完計画は叶わなかった。

でも、それを叶えたのが、宇宙戦艦ヤマト2202のテレザート星のテレサではないだろうか。

宇宙戦艦ヤマト2202のテレサは、まさに人類補完計画が実現したもの

宇宙戦艦ヤマト、僕らの世代では、松本零士先生の作品としての記憶があるが、最近またリメイクされている。

宇宙戦艦ヤマト2199からのリメイクシリーズだ。

これも、TV版、映画版と微妙に違うようだ。

宇宙戦艦ヤマト2202で出てくるテレザート星のテレサは、テレザート星の中心部に存在する高次元世界との結節点「テレザリアム」でのみ、直接の会話ができるという存在である。

見た目は、巨大な挑発の全裸の女性だが、これは本来の姿というよりも、見る人がそう見える、という存在らしい。

そして、ここでのテレサは、高度に進化したテレザート星のテレザート人が、精神力を物理的な力に変換して、肉体を捨て去り、一つにまとまった存在、それがテレサということだ。

これこそまさに、エヴァンゲリオンの碇ゲンドウやゼーレが目的とした人類補完計画が実現したものではないだろうか。

しかし、結局、そうなったテレサは、ガトランティスという存在からの危機をヤマトへと発信して、宇宙戦艦ヤマトを自らの星に導いていく。

そして、宇宙の危機を救っていく、という流れになっている。

つまり、人類補完計画が実現したとしても、それはあくまで地球の中での平穏を保てるだけで、宇宙という視点からは、その平穏さを保てる保証はない、ということになるのではないだろうか。

いずれにしても、宇宙戦艦ヤマト2202のテレサは、まさに、碇ゲンドウたちが目的とした人類補完計画が実現した例ではないだろうか。

人類補完計画は本当に人類を幸せにするのだろうか

宇宙戦艦ヤマト2202のテレサは、テレザート人が肉体を捨てて精神を結集した存在だが、結局、宇宙の中では安定を保つことは出来なかった。

地球の人類が、同じようになったとして、それが人類の幸せになるのだろうか。

宇宙的な視野とは別にして、個々の人間が肉体を捨てて一つの存在になることが幸せなのだろうか。

確かに、人類同士が争うこともない、平穏な状態に地球で離れるかもしれない。

でも、同時にそれは、人類としての、人と人が触れ合うことによる喜び、楽しみ、などを奪ってしまうことにもなる。

つまりそれは、人間が個人としてなくなる、つまり自殺してしまうのと同じことなのではないだろうか。

だから、生きていることが辛くて仕方ない、というような自殺志願者にはいいかもしれないが、普通に暮らしている人々にとっては、全くのお節介もいいとこではないだろうか。

人間はいくら望んでも永遠に生きることは出来ない。

生きたくても、せいぜい100年前後でその希望はあきらめなければならなくなる。

早く、その時を迎えたい、という人がいるのも事実だろう。

でも、あえてそう望まない人の肉体を捨てさせて、ひとつになることが人類の幸せとは到底思えない、というのが普通だろう。

ただ、碇ゲンドウの場合は、最愛の妻、碇ユイとの再会という、別の目的があった。

人類の幸せというよりも、個人の欲求だったのだ。

結局、碇ユイは、それを拒絶して、人類補完計画は失敗することになる。

と、こんなことを書いても、知らない人には全く分からないだろう。

でも、エヴァンゲリオンは一度その呪いに取りつかれると、ものすごく強く取り込まれてしまう、そんな作品なのである。