千葉市斎場

父親が亡くなったのが、1月19日、そして1月28日、やっと葬儀・火葬が行えた。

火葬場の予約は朝10時、そのため葬儀は朝8時からという早い時間

父親は、約10日間、亡くなってから安置されることになった。

この時期、特に年明けのこの時期は、火葬場が混んでいる、というと語弊があるかもしれないが、なかなか予約がとれないとのことである。

僕たちが葬儀屋さんとの打ち合わせ、契約をしたのが父親が亡くなった翌日の1月20日の午前中。

その時点ですぐに、火葬場の予約を取ってもらったが、一番早いのが、1月28日の朝10時だった。

一般的には、昼頃の火葬時間帯の希望が多いそうで、お昼ごろの時間帯に火葬をしようとすると、もっと予約が遅れるらしい。

火葬が10時なので、葬儀は朝8時という総長と言ってもいい時間になってしまう。

でも、出来るだけ早く火葬してあげたかったので、1月28日10時の火葬で予約してもらった。

火葬は、千葉市斎場という最寄り駅で言うと鎌取になる。とはいっても、車で行ったのだが、だいたいそのあたりだった。

父親は、亡くなった後すぐに、博全社の蘇我儀式殿に移送され、安置された。

しかし、葬儀は、父親の自宅に近い、美浜儀式殿(最寄り駅は稲毛海岸)で行ってもらうことにした。

安置期間が10日ほどと長くなるため、遺体の変形、腐敗などを防ぐための処置、エンバーミングというそうだが、その処置を行ってもらうことにした。ただし、この処置は15万円かかるとのこと。

でも、葬儀を簡素にした分、父親にはなるべく綺麗な形でいてほしいので、お願いすることにした。そのためか、葬儀場でみた父の顔はとてもきれいな顔をしていた。

亡くなった時は空いていた口も閉じられていた。

火葬が朝10時ということで、葬儀は、朝8時に美浜儀式殿で行われた。葬儀と言っても、親族のみが集まり、ご焼香をしてお線香を縦て、永眠している父の棺の中に花を入れたりするだけだったが。

葬儀に参加したのは、僕ら夫婦と子供たち4人と2歳の孫、もちろん父親の妻である母親はも主として参加。そして、父親の妹、僕から見れば叔母になるが、叔母夫婦とその娘、つまり僕のいとことなる2人、計12人というこじんまりした葬儀だ。

朝の8時にこの12人が集まり、父を囲んで簡素な葬儀となった。

葬儀場から火葬場へ

そして、その後美浜儀式殿から千葉市斎場へ父親が霊柩車で移動。霊柩車といっても、白のベンツのワゴンだった。

そして、そのベンツの後に、車3台に分乗した僕たちが続いて千葉市斎場へ移動した。霊柩車のベンツの運転手さんは、常に後続の僕たち3代を気にしながら走ってくれて、信号で、後方の車が遅れてしまうと、その都度、停車して待っていてくれた。

そして、千葉市斎場。火葬場と言っても、建物や室内はとてもきれいなところである。

父親は霊柩車から降ろされ、火葬される炉の前へと運ばれた。

葬儀屋さんから手配してくれていたお坊さんも来ていた。

僕ら集まった親族も炉の前へ移動して、父の顔を見る最後の場となった。お坊さんがお経を読み、父に最後のお別れをして、父親は炉の中へと入れられた。

僕らは待合室で待っていることとなった。待合室では、お坊さんが付けてくれた父親の戒名についての説明があった。事前にお坊さんから電話があり、父がどういう人であったかを伝えていたので、それに基づいて、お坊さんが戒名を考えてくれたそうだ。

そして、そのお坊さんが、その戒名を書いた木製の位牌を持ってきてくれていたので、それを火葬での儀式に使っていたのだ。

約1時間半後、室内に父親の火葬が終了したとのアナウンスが流された。

葬儀屋さんの短頭の方が、僕らをまた炉の前に案内してくれた。ちなみに、火葬の前も後も、父のところへ近づく順番が3番目まではあるようで、喪主が先頭、次に位牌(木製の戒名がかかれた噛みが張られたお坊さんが持ってきてくれたもの)を持つ人、3番目に写真を持つ人、とのことであった。

火葬が終わったとの確認のため、まずは、その3人が炉から出てくる父の遺骨を確認するようにとのことであった。

火葬され、まだ人の形が残った状態で遺骨が炉から出されてきたのを3人で確認した。

その後、火葬場の短頭の方が遺骨を部署ごとに整理してくれるのを待ち、集まった12人が再度、父の遺骨の周りに集まった。

まず、喪主となる母親と僕が二人で足の骨を箸でもって骨壺へと入れた。その後、順番に二人づつが一つのお骨を骨壺に入れ、全員がいれた後は、担当の方が、残る遺骨を骨壺に、僕たちの前で、納めてくれた。そのままだと骨壺に収まらないので、骨壺の中に入れた遺骨を粉砕しながら、すべての遺骨を納め、最後に頭の骨を一番上に入れて、骨壺にふたがされた。

骨壺は白い布のようなもので覆われ、その骨壺はけっこう重く、母には持てなかったので、僕が持って先頭に立ち、炉の前から立ち去った。

これで一通りの葬儀・火葬の儀式が終了となる。

本来は、その後、集まった人たちで供養の食事をするのだが、一度は収まったように見えていた新型コロナ感染が、オミクロン株によって、急増。千葉県にも、蔓延防止措置が取られているので、その日は、みんなでの食事はせずに、火葬場で解散とした。

叔母家族とはその火葬場で別れ、僕は母親と息子と末娘夫婦とその2歳の子供を乗せて車で母の実家の近くまで移動。妻は、長女と次女を乗せて送っていくこととした。

実家へ戻ってから四十九日の納骨までお骨を安置する祭壇を設置

ちょうど昼時だったので、母親と息子と末娘家族の6人で、母親の家の近くのファミレスへ行き昼食を取ることにした。

蔓延防止措置のため、ファミレスでも、1テーブルに4人まで、という規制があり、6人でひとつのテーブルに座ることは出来ないとのこと。

2つのテーブルに分かれて食事をして、食事後、末娘家族とはそこで別れて、最寄りの駅から帰ってもらった。

母親の家には、僕と息子が一緒に戻り、朝の葬儀の時に渡されていた、火葬後の骨壺を置く祭壇のセットを母の家に設置した。

段ボールと木を組み立てた簡素なものだが、3段になっていて、畳1畳ほどのスペースを必要とした。

線香立てセットなども付いていて、一通りのものはそろっているものだ。

息子と僕が、それを設置して、木製の位牌と父の遺影を一番上に、2段面にお骨を、そしてその下にお線香やろうそく、チーンとならす、「りん」を並べて官僚である。

あらかじめ持ってきておいた花は、2段目の骨壺の両脇に飾った。

これで一通りのその日の儀式は終了であった。

四十九日の納骨まで、しばらく父はそこにいることになる、のか。

ただ、母親はそこに父の遺骨と写真があることで、かなり精神的に不安定になっていった。

「怖くて夜眠れない、朝まで起きていなくちゃ」と泣きそうな声で行っていた。

もしかしたら、遺骨の祭壇は、僕のうちへ移すかもしれない。

それでも、この日で一区切りついたのは確かだ会った。

以後は、再度、年金や保険の手続き、銀行のへの連絡、遺産相続の手続きなどをしなければならない。

まだ父が亡くなった後のやることは、続けなければならない。