父親が永眠

【父親が亡くなった】その時にやったこと

治療院に入っていた父親が亡くなった。91歳だった。

医師からは昨年末に、血管が細くなり、輸血、また点滴も難しくなった。年明けには覚悟しておいた方が良い、と言われていた。

だから、覚悟はしていた。

面会もいつでもいいです、と言われ、正月の元旦から面会して、その後も頻繁に面会をした。

正月には完全に寝たきりになっていた。でも、しゃべることは出来ていた。ただし、何を話しているのかを聞き取るのが難しいようなしゃべり方しかできなかったが。

亡くなる前日も面会に行き、その時は、しゃべることもかなり辛そうだったが、それでもしゃべろうとしてくれていた。

亡くなる日、治療院からかなり厳しい状態だとの連絡が入った。

母親を迎えに行き、治療院へと向かった。

母親と一緒に面会すると、しゃべることが出来なかったが、こちらの問いかけに対しては、顔を動かして反応してくれていた。

一応面会は15分という制限があったので、一度、病室から退室したが、看護師さんからは、帰らずにロビーで待っていた方が良い、と言われた。

1時間ほど待っただろうか。看護師さんから連絡があり、すぐに来てくれ、とのこと。

1階のロビーから5回の病室へ向かった。

病室へ着いた時には、すでに父の心拍はゼロになっていた。

ちょうど、エレベーターにのっていたぐらいのところで、心臓が止まったとのことだった。

その瞬間には立ち会えなかったけど、その直前には面会して、母親の言葉にも反応していてくれたので、まだよかったと思う。

面会は基本2人しかできないが、永眠したあとは、一緒に来ていた僕の妻と長女も含めて4人で永眠した父に会わせてくれた。

母は永眠した父の手を握っていた。僕は、ただ永眠した父の顔を見つめるしかできなかった。

父の顔は、91歳とは見えないくらい、つやつやとして綺麗だった。

苦しむこともなく、安らかに眠りについてくれたようだった。

すでに、前から覚悟はしていたので、泣くことはない、と思っていたが、涙が滲み出るのをこらえなければならなかった。

医師が来て、15時17分、死亡を確認した。

父親が亡くなったとわかったら、すぐに葬儀屋へ連絡

こうなることは、ある程度、予想していたので、こうなった場合どうするかを妻に頼んで、手配しておいてもらった。

あらかじめ、葬儀屋、具体的には「よりそうお葬式」へ登録しておいたので、妻がすぐに連絡を取ってくれた。僕はただ永眠した父を見つめているだけだったけど。

しばらく病室で父と一緒の時間を取ってくれたが、その後、着替えをして、5階の病室から1回の霊安室に移すとのこと。

また、僕らは1階のロビーで待つことになった。その間も、妻は父の妹へ連絡したり、動いてくれた。

妻は、数年前に父を亡くしており、その時の経験から、いろいろとやってくれたのだ。

ロビーで少し待っていると、看護師さんが呼びに来てくれて、1階の霊安室に案内してくれた。

こういう施設だから、ここで亡くなる人は多いのだろう。

小ぎれいな祭壇のようなものの前に父が横たわっていた。

葬儀屋さんは、17時に来てくれるとのことで、少し霊安室で父と一緒にいる時間があった。

17時ちょうどぐらいに、葬儀屋さんがいらした。

担当の方は、看護師さんを呼ぶ前に、これからのことについて、説明をしてくれた。

まず、すぐに葬儀屋さん、具体的にはよりそうお葬式を通してきたのは博全社という葬儀屋さんで、その博全社の葬儀場でアンチをするので、そちらへ父を移動するとのこと。

そして、その日はすでに17時を過ぎているので、翌日、そこへ行って、詳細の打ち合わせ、契約を行うとのことであった。

それらの説明が終わった後、葬儀屋さんの短頭の方から、「では、看護師さんを呼んでください」と言われ、看護師さんを呼んだ。

すぐに看護師さんが一人来てくれて、父親を葬儀屋さんが持ってきた移動式タンカに移した。

僕にも手を貸してほしいと言われ、葬儀屋さんが頭の部分、看護師さんが背中の部分、そして僕が足をもって、移動した。

移動後は、すぐに葬儀屋さんの車へと移動して、その車に父は乗せられて、治療院から葬儀場の安置室へと向かった。

その時には、父の世話をしてくれた看護師さんがほかにも3名ほど来ていて、一緒に父を見送ってくれた。

僕らも、その看護師さんたちにお礼を言って、治療院を後にした。

母親も一緒だったので、夕食を一緒にして、母を送り、家へと帰ったのである。

母親ももうすでに覚悟していたのか、それほど落ち込んだ様子もなく、綺麗な顔をしていたことを話していた。

僕たちも家に戻った。そして、僕はすぐに遺影に使えるような父の写真を探した。

数年前にデジカメで撮った写真がパソコンのハードディスクに残っていたので、その中から遺影に使う写真を選んだ。

まだ父が元気なころで、孫、と言ってもすでに成人していたが、一緒に銚子丸へお寿司を食べに行った時の写真で、一番父が笑っていたのがその写真だったのだ。

そんな写真をいろいろと見ているうちに、自然に涙が出てしまった。覚悟はしていてもやはり、実際にそうなると悲しくなってしまうのかな。

父親が亡くなった翌日に葬儀屋で打ち合わせ、契約

父親が亡くなった翌日、朝の9時半に、父親が安置されている葬儀場で細かい打ち合わせ、契約をするとのことであった。

そのため、母親を迎えに行き、妻と私と母親の3人で葬儀場へと行ったのである。

葬儀は簡素でいい、と生前父親は行っていたので、かなりシンプルなものにするつもりだった。

しかし、火葬場がこの時期はとても混むとのことで、実際に、火葬場の予約が取れたのが1月28日、つまり永眠したのが17日だから、その日を含めて10日後となる。

葬儀屋さんによると、新型コロナに関係なく、年末年始当たりは、火葬場が毎年混む時期らしい。

火葬上の予約は永眠後の10日後となったので、それまで安置されることになる。

やはり日時が経つと、体の変形、腐敗等が発生するので、それを防止するための処置ができるという。

葬儀自体は簡素にしようと思ったが、その処置はしてもらうことにした。ただし、そのための処置には15万円かかるのだが、体だけは綺麗にしておいてあげたかったので、その処置はお願いすることにした。

この時点で父親が安置されている葬儀場は両親の家から少し離れているが、もっと近くに同社の葬儀場があるという。

したがって、火葬場へ行く前の葬儀は、その実家に近い葬儀場でもできるとのことで、ここでも移動費用はかかるが、少しでも住んでいた家に近い、そちらで行うこととした。

こうして、葬儀から火葬までの内容を決めて、その日に契約、ただ、火葬の時に父に着せる服が必要だという。

これも飼うことは出来るが、普段来ていたものを持ってきてもらっても良いとのことで、そうすることにした。

体の処置をするために、翌日の午前中までにその服を持ってきてほしいということで、その日の翌日の午前中に、母の家から父親の来ていた服とズボン、そして靴下を葬儀場へと届けた。

これで、葬儀から火葬までの一通りのことは、この段階で準備ができたことになる。

父親が亡くなった後に永眠する場所は僕らが決めた室内墓にする

この先、火葬前後から、いろいろな手続きが必要になってくる。

保険や年金、父親名義の銀行口座からの引き落とし先の変更、また銀行の貸金庫の中身の確認などなど、けっこういろいろとあるようだ。

母親にそれをやれと言っても無理なので、全部、こちらでやることになる、と言ってもそこは妻が経験者なので、いろいろとアドバイスと、実際の実務をやってくれるので、そこは助かっている。

具体的にどうしたかは、実際にやった後にまた、記録に残していきたいと思う。

そして、お墓。

従来のうちのお墓は、以前住んでいた地域のお寺にある。

しかし、そこのお墓は狭い未舗装路の通路を通っていかなければならず、車椅子では行くことが出来ない。

また、先日そのお寺にこうなった場合のことを訪ねた時の対応も今一つだったし、費用もかなりかかるようだった。

そのため、そのお寺にはお骨は納めずに、別に、室内墓、室内霊園のようなところを父がなくなる1週間ぐらい前に契約したところだった。

したがって、父親にはそこに最初に入ってもらうことにする。

父親は、おそらく、今までのお寺のお墓に入るものと思っていただろう。別に室内墓を僕らが買って、そこに入るとは思ってもいなかったと思う。

それは申し訳ないと思うが、うちの娘には今、車椅子生活の娘がいる。

そういったこと、また、従来のお墓があるお墓が交通の便も悪く、前述の通り、そこの住職の対応もいまひとつで、かつ費用もかなり掛かる。

ということで、交通の便も良く、気軽にいつでもお参りに行ける室内墓に決めたのだ。

費用も従来のお寺に納めるよりも安く済む。別の投稿記録にも書いたが、室内墓のメリットとデメリットを検討したうえで、決めたことなので、父親には申し訳ないけど、そこに入ってもらうことになる。

これからしばらくは、いろいろな手続きなどで関心でいる暇がないかもしれない。